読むとすぐに勉強のやる気が出る3人の偉人のエピソード

合格サポート 2015.11.5
読むとすぐに勉強のやる気が出る3人の偉人のエピソード

勉強がしたくない・・モチベーションが上がらない・・

人間誰でも、そんなときがあると思います。

特に、受験勉強は毎日の勉強の積み重ねとは言うものの、一回一回の勉強の成果が見えづらく、モチベーションが続かない時期がどうしてもあると思います。

しかし、その一方でその時間に目標に向かって、コツコツと努力を積み重ねている人がいるのもまた事実です。

今回は、3人の偉大な功績をおさめた偉人がどんな過程を経て、目標を達成することが出来たのかを紹介します。

勉強へのモチベーションが出てきたらこの記事を閉じて、すぐに勉強を始めましょう♪

		

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    1. 山中伸弥:悪い事の後には、必ず良いことがくる。

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    山中伸弥は2012年「成熟細胞が初期化され多様性をもつことの発見」によってノーベル生理学・医学賞を受賞しました。そんな山中には、2度の挫折と、それを乗り越えることが出来た1つの考え方がありました。

     

    1-1. あだ名は「ジャマナカ」、うつ病に・・味わった2度の挫折

    ノーベル賞という輝かしい賞を受賞した山中ですが、決して全てが順風満帆だった訳ではありません。彼は、人生で2度大きな挫折を味わっています。

    1度目は研修医時代の時です。医学部を卒業した山中は、小さい頃から夢だった整形外科医になるために大阪にある病院で研修医として働く事になります。そこに待ち受けていたのがこの世の物とは思えないくらい怖い先生”でした。山中は、鬼のような先生にビシビシと厳しく指導を受けました。しかし、山中は不器用だったため、手術が得意ではありませんでした。うまい先生だと20分で終わる手術が2時間かかってしまうこともありました。

    そこでついたあだ名がジャマナカ。山中は自分に医者としての才能がないと思い悩みました。そして、夢だった医者の道を諦め、研究者の道へと舵を切る事になりました。

    2度目は、家庭の事情でアメリカから日本に場所を移して研究を始めた時です。アメリカでの研究で、ES細胞の研究がようやく軌道に乗ってきたものの、子供を日本の小学校に通わせるために、日本に帰って実験を続ける事にしました。

    しかし、研究費も研究環境も良かったアメリカに比べ、日本では研究予算も十分にもらえず、実験用マウスも自分で世話をしなければいけない環境におかれました。500匹程のマウスを1人で世話をしているとき、ふと「自分は何をしているのだろう。」と思ったそうです。

    その上、周りの理解も決して良いとは言えませんでした。「医学部なら医者になった方が良い」や「ネズミの研究は役に立つのか」と周りの人には言われたそうです。

    周りからあまりサポートを得られず、もう学校に行きたくない、朝起きたくないという状態が続いたそうです。

     

    1-2. 山中を成功へと導いたある考え方

    そんな山中が、挫折を乗り越えられたのは、ある1つの考え方を持っていたからです。それは、万事塞翁」という考え方です。世の中にはいい事と悪い事は交互に起きるものだから、悪い状態の後にはきっと幸せが訪れます。だから、1つ1つの事に一喜一憂していても仕方ないという考えです。

    その考え通り、挫折したすぐ後に、なんと人間のES細胞の作成に成功したのです。そして、最終的にノーベル賞を受賞という成功を勝ち得ることが出来ました。

    出典:ノーベル賞・山中伸弥氏「手術がヘタで、“ジャマナカ”と呼ばれてた」 挫折したことがiPS細胞研究につながる(http://logmi.jp/37151)

     

    おそらくこのブログを読んでいる方はやる気がない自分に焦りやイライラを感じていると思います。やる気が出ない理由は、テストでなかなかいい点数が取れなかったり、自分が今やっている勉強に確信が持てなかったりというのが根底にあると思います。人間誰しもモチベーションを常に高く保つのは難しいです。だから、やる気が出ないからいって、現実を逃避するのではなく、目の前のものを1つ1つこなしていく事が大事です。悪い状態の後は必ず良い状態がくると信じて、勉強していればきっと合格への道が開けると思います!

    参考やる気がない時どうした?現役早稲田生に聞いた!

     

      2. イチロー:準備もしてないのに目標を語る資格なし

      2004年には、メジャーリーグのシーズン最多安打を達成するなど「天才」と称されるイチロー、その彼のあまり知られていない苦節時代を紹介します。

       

      2-1. 高校時代に交通事故でピッチャーを断念

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      3歳で始めたイチローは、小学校の頃から、そのストイックさにおいて抜き出るものがありました。友達と遊ぶのは1週間で5~6時間のみで、それ以外の時間、365日野球の練習をしていました。

      そして、中学校を卒業したイチローは、プロになるためのステップアップとして名門の愛工大名電高校に入学します。1年目からレギュラーを掴んだイチローでしたが、なんと2年時の春に交通事故にあってしまいます。その交通事故で速球が投げられなくなり、投手としてプロを目指すという夢がついえてしまいます。

      「あれは辛かった。プロ前に味わった挫折で、最大の挫折だった。ピッチャーはもうダメってことですし、野球自体出来なくなるんじゃないかって、本気で悩みました。」(引用:イチロー人生最大の挫折「高校でのピッチャー断念」に隠された秘密とは??http://t-mouri85.net/blog/210.html)

      しかし、その後、不断の努力の結果、打者としてのポテンシャルを開花し、高校3年生の地方予選で打率7割をマークするくらいまでに成長しました。

       

      2-2. オリックス入団も決して高くなかった周囲の期待値

      その後、イチローは打者としてのポテンシャルを買われ、見事にオリックスに指名されます。しかし、他のスター選手と違いドラフトで上位指名を受けた訳でありません。ドラフト4巡目、全ての選手の中で40番目くらいの順位でした。

      また、プロに入って1,2年目も苦労の時代が続きます。入団した年の7月にはプロ初安打を放つものの、その後は1軍に定着出来ず、1軍と2軍を行ったり来たりする日々を過ごします。さらには、当時の1軍のコーチからはイチローの強みである「振り子打法」を否定されてしまいます。

      しかし、決して自分の芯を曲げる事なく、振り子打法を貫き通していた結果、2軍の河村健太郎コーチにその振り子打法を買われ、現在のイチローの代名詞と言われるくらいまでに開花させました。

      その結果、次の年にはパリーグの打率記録を更新し、さらには最年少でMVPを獲得するなど、イチロー伝説がスタートする事になったのです。

       

      最後に、そんなイチローの名言を紹介します。

      「しっかりと準備もしていないのに、目標を語る資格はない。」

      イチローは誰も人がきていないにもかかわらず、試合の5時間前にグランドに入り、体を動かしているそうです。天才と称されるイチローも、そのポテンシャルを引き出すだけの絶え間ない努力があるからこそ、偉大な結果を残し続けているのです。大きな目標を持っても、そこに対して相応の努力をしなければ、成功を成し遂げる事は出来ません。口だけにならないように、しっかりと準備をすることが大切ですね!

      同じプロ野球選手のエピソードとして、上原浩二選手のお話も有名なので、ぜひ読んでみてください!

      大学受験失敗 その後の人生で逆転する3つの方法

       

       

      3. 孫正義:まずは勝ち癖をつけること

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      スマートフォンで有名なソフトバンクの起業家で、2015年度3月時点での総資産は141億ドル(日本富豪ランキング2位)である孫正義。ビジネスの天才と称される彼には、誰にも負けない一本気の信念がありました。

       

      3-1. 16歳で渡米

      孫正義は佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落で生まれた孫は、在日朝鮮人であるという理由でいじめをうけていました。小学校、中学校の時には、自殺したいくらい悩んだ事もあったそうです。実業家の父親からは、「おまえは在日朝鮮人だから人の何倍も努力しなければいけない。」と言われ、その頃から、1人の大人として扱われ、父の経営する会社の助言を求められていたそうです。

      そして、高校のときにいった4週間のアメリカへの語学研修で、アメリカの自由さ、人種への寛容さに感銘を受け、日本の高校を半年で中退し、サンフランシスコの英語学校へ入学します。その後、アメリカの高校へ入学し、カレッジを経て、カリフォルニア大学バークレー校に入学します。

      高校を卒業するときの検定試験にて孫を象徴するエピソードがあります。

      検定試験は、アメリカの高校を卒業するために必要な試験です。孫は、2年生で入学し、3年、4年と飛び級していたため、アメリカに来て、約半年しか経っていない試験に臨みました。

      問題用紙は50ページ。まだ、英語力が足りていない孫にとってその分量は不可能といえる量でした。

      そこで、孫は試験官に辞書を引きながら解くことと時間を延長をすることの許可を申請します。もちろん、試験官も認める訳にはいきません。最初は孫の申し出を断ります。しかし、孫の粘り強い交渉と、迫力に圧倒され、教育委員会に電話をし、ようやく許可をもらいます。その交渉のかいあり、孫は試験をトータルで30時間程オーバーし合格にこぎ着けました。

       

      3-2. 大学時代 猛勉強の傍ら1億円を稼ぐ

      大学時代の孫は、勉強に夢中になり、自分でも世界で一番勉強したというくらい勉強しました。食事や風呂のときももちろん、信号待ちや車の運転中も時間を無駄にせずに勉強していたそうです。(危ないのでまねしないでください。)

      そんな、孫が1日で使えた時間は1日たった5分。その5分で、大学卒業後の軍資金をつくろうと思っていた孫は1日5分をアイディア出しの時間に充てました。そのアイディアは1年間で250個。そのうちの1つの電子翻訳機をシャープに売り込んだ事で、なんと1億円を手に入れる事が出来ました。それを元手に現在の資本金2000億越えという企業を立ち上げることになりました。

       

      3-3. 孫を成功に導いた考え方

      孫を成功へ導いた1つの考えがあります。それは、自分の決めた分野では絶対に一位になることです。そのためには、自分の勝てる分野でしか勝負しないこと、その分野を決めたら徹底的に努力する事が必要です。

      孫は、身長が低かったので、決してバレーボールには手は出さず、歌がうまくなかったので音楽には精を出しませんでした。その代わり、勉強や起業においては、他の誰にも負けないくらいの努力をし、成功を収めてきました。

      孫は、まずは「勝ち癖」をつける事が大事だといいます。どうせ頑張っても良い成績が取れないなどと思い込んでしまうよりも、一回でもいいからナンバーワンを目指してみる事が大事だといいます。1度ナンバーワンをとってしまうと意外と1位をとる事に対して特別意識がなくなり、逆に次回1位を取れなかった時に気が済まなくなります。それが勝ち癖です。このパターンで、負け癖のついていたボーダフォンを成長させ、今では業界のトップクラスを走る企業へと成長させたのです。

      この考えは、勉強にも通じるものがあります。まずは、自分のこれは負けないという分野を作ることが大事です。それは、数学でも日本史でも英単語でも構いません。そこで「勝ち癖」をつけることで、別の科目にも良いサイクルが生まれます。その積み重ねがやがて結果に現れてきます。

       

      いかがでしたか?今回紹介した3人、それぞれの方法で努力をしたことで、挫折を乗り越え、成功を勝ち得ています。目標までの努力の方法は人それぞれです。是非、今回の3人の方法も参考に勉強に励んでください!

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      この記事の執筆者

      ニックネーム:受験のミカタ編集部

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